君たちはどう生きるか
生態系の均衡
ふと10時ごろに起きてなんとなく映画館の時程表を見た
ちょうど良い時間に小さな贅沢としてIMAXシアターでゆったりと鑑賞できることがわかりシャワーを浴びる。
35度を超える暑さに温めの水に体を通した。
まとわりつく外気に舞う湿気。最大出力のファンさえ外気の高温多湿によって温風が運ばれる。
ゆっくり汗を流し、体を冷やし、髪を労ったせいで私の知る冒頭のシーンは欠けている。
公開前からインターネットのおもちゃにされていた鳥の解像度が、物語が進むに連れて高まっていく。
今作は宮﨑駿の展覧会的作品であると考える。
今までの作品は大衆に理解されるためにストーリーという大衆に理解されるための共通言語、プロトコルの上に綿密ー成り立ったものであったが、
彼はその共通言語からはみ出す実験を始めた。彼が表現したいことを優先した作品であった。
椅子の付いた美術館である。
彼は表現したいものをいくつも用意し、それを紡ぎ、共通言語の上にあえて荒削りのまま、鮮度の高い状態で世に放った。
そうすることで美術館で作品と対峙するときのような感情の発火を再現しているように思える。
上映後、その場にいた人の反応を見ていたところ、今までのジブリ作品のような”物語”を期待していた者たちにとってはとても後味の悪い作品だったと言えるような感想を口にしていた。
この作品特に定規と言えるような筋の通った”物語”がなくとも個々の持つ知識や感覚を作品にふりかけて”鑑賞する”ことで楽しむことができる。
そうして私が強く感じたことが冒頭に記した、「生態系の均衡」である。
それと同時に世界は微粒子に力が加わってできたものであって、その力はいとも簡単に均衡を保てなくなり、崩壊し、また微粒子に戻るということを再認識させた。